美 術 理 論






平面性 vs 松:  




崩壊を見据えた進捗状況の見直し



英文:キーラ・コルドスキー(Kyra Kordoski)
和訳:山﨑燈里 (Akari Yamasaki)








キーラ・コルドスキーがクレメント・グリーンバーグのパンテオン建築の芸術論とその近代性との関連を、キノコの松茸の視点から再考する。


クレメント・グリーンバーグが1960年に発表した評論、『モダニズムの絵画(Modernist Painting)』は参考文献として多くの論文に絶え間なく引用されている。『モダニズムの絵画』でグリーンバーグは絵画の絶対的な平面性に着目し、「メディウム・スペシフィシティ(媒体の固有性)」の理論を展開した。グリーンバーグによると、2次元性こそが絵画を他の媒体とは一線を画すものにするという。彼は本文の中で、「…絵画制作は熟慮して制限を選択し、またそれらを創出することを意味している」と主張している。、この解釈の参照先としてカントに論及している。1「カントは論理の限界を立証するために論理を用い、その旧来の支配圏から多くのものを撤回したが、論理は、そこに残されたものをかえっていっそう安泰に保持するようにされたのである」。2

このような啓蒙主義の論理に関連して、イメージ制作としての絵画は、意図的に線で囲った概念的な限界を超えたものは、最終的には無視されるべきであるという、同義語反復の行為となる。グリーンバーグが近代美術界におけるアメリカの優位性を擁護する際、主にこの平面性を根拠にしていたのも納得できよう。植民地主義の「新世界」はこの種の絵画と似た意味を持っていた。絵画と同じように、測量された領土も周囲を線で囲んだ表面であり、白人の男性優位的思想が作り上げた内部だけで完結する文明の傑作であった。アメリカは究極の真っ白のキャンバスと見做されていた。その真っ新なキャンバスを完成させるために最後に必要となったのは、真に精神病的な暴力を用いた装備だった。

人類学者であるアナ・チンの2015年の著書、『マツタケー―不確定な時代を生きる術(The Mushroom at the End of the World: in the Possibility of Life on the Capitalist Ruins)』で、チンは植民地化された土地がどのようにして近代資本主義文明を支える表面へと変貌していったのかを記述している。

「例えば、16、17世紀のブラジルのサトウキビ農園では、ポルトガル人の農園主達が領土を円滑に拡張する方法を偶然発見した。それは、地元の人々や植物を一掃し、更地となった未開の土地を用意し、そこに生産向けの外来で純粋培養の労働力や作物を持ち込むというものだった。この自給自足の入れ替え可能な方法の原理を巧みに作り上げたのである。この拡張性のランドスケープモデルは、後の工業化と近代化に影響を与えた」。3

チンのキノコの分析は、グリーンバーグが絵画の分析の一環で、自己充足的に完結した表現への理想を考察したのと一致する。一方で、チンの分析では、その理想が幻想的であるだけでなく、破壊的な性質をも含むことを述べ、反証としている。

チンが書いているキノコとは松茸のことである。愛される珍味であり、世界中で育つが、そのほとんどは人間が森林を伐採した地域にしか生えない。オレゴン州では、松茸は合法性の差はあれど多くの文化団体によって採取されている。その後、松茸は複数の買い手と売り手によって流通し、多くの場合、日本に行き着き、喜ばれる贈り物となる。チンは資本主義の中と外を行き来しながら、松茸の長く複雑で国際的な供給連鎖を追跡する。

松茸の生態と松や線虫との関係性に始まり、採集者と買い手の間の金銭的に不安定な交渉に至るまで、松茸の供給連鎖に関連する事柄は全て出会いによって成立している。この出会いがチンの分析の中心となる概念である。「出会いとは、その性質上不確定なものだ。私達は予測できないほど変わっていく」。4しかし、西洋の資本主義は、この種の変化を断固として拒否する姿勢を強化してきたと彼女は強調する。

「自己完結した個人は、出会いによって変わらない。彼らは自分達の利益を最大化するために出会いを利用はするが、内面は変化しないままである。... 『標準的な』個人は、分析の単位として誰の身代わりにでもなれる。論理だけで知識をまとめることが可能になる」。5

絵画とキノコを比較することは、拡大解釈のように思われるかもしれないが、グリーンバーグの文章は芸術と科学の両方の洞察に基づいている。彼は下記のように述べている。「視覚芸術は視覚的経験においてもたらされるものだけに専ら自己を局限すべきであり、…他の経験の順序で与えられたものには一切言及しないというのは、科学的な一貫性に唯一の正当性がある考え方である」。6
チンはこの一貫性を批判的に捉えている。チンによると、科学的な方法は「機械的」なものであり、「教師、技術者、査読者の密集隊が、余分な部分を切り落とし、残った部分を適切な位置に金槌で叩き込もうする」一連の手順と見なす。7 特に生物学については、チンは次のように述べている。「種の生殖は、自己完結的で、自己組織化されており、歴史から切り離されている(と考えられている)。...自己複製するものは、機械技術が操れる自然の模範であり、近代のものである」。8そして、標準化し規模拡大に対応できる単位を備えた統制が、種の間に発生する出会いの本質的な変容の性質を故意に無視していることをチンは改めて論証する。「誇り高く自立した私達人間でさえも、産道から産まれ落ちた際に得た最初の細菌の助けなしでは食物を消化できない」。9

グリーンバーグは、彼が論評を書いた芸術家達が、近代科学的手法の純粋さを絵画の中で意識的に実現しようとしているとは考えていなかったと述べた。また、1978年の評論の追記で、無名の回答者に対する訂正として述べたことによると、グリーンバーグ自身は絵画の純度がその成功に直結するという見解を持っていなかったという。彼は自分自身を単なる近代の行動の評論家と位置づけている。

「芸術それ自体の観点からすれば、それが科学に近付いていったのは、たまたま起こった単なる偶然の出来事であって、芸術も科学もかつて以上に他方に何物かを与えたり保証したりはしない。しかしながらそれらの収束が示すものは、モダニズムの芸術が近代科学と同じ歴史的、文化的傾向に属している、その度合いである」。10

チンとグリーンバーグは「近代」という言葉を正確に同じように使っているわけではない。また、グリーンバーグのメディウム・スペシフィシティの解釈が、芸術作品の制作や分析において長期的に明確な基準となったわけでも無論ない(ポスト・モダニズムを参照)。しかし、「文化的傾向」(それ自体が科学的一貫性を持つものではない)を考慮すると、自己完結している例は現代美術の世界全体で簡単に見つけられる。「ホワイトキューブ」は本質的に規模拡大できる自己完結した単位であり、世界中で繰り返し再現されている。ギャラリーの壁は地域環境を消す働きをしている。画材は多くの場合表面と見做される。画材としての絵具という明確な認識がイリュージョナリズムに取って替わったものの、一般的にこの絵具の化学的性質、労働条件、サプライチェーン、環境への影響についての批判的な分析はほとんど認知されていない。
《この絵具とイリュージョナリズムに関して更に言えば、展示用の空っぽの空間を用意することが、まるで芸術作品に課せられた重要な責務であるかのようだ。空の空間とはつまり、作品の表面を真剣に見つめ、それを西洋美術史の自己完結的な規範にどのように位置づけるのが最善か考えられる空間のことだ。そして、アートは資本主義を強化する分離の傾向を促すために積極的に利用されてきた。2014年にSITE Santa Feで開催された展示「Unsettled Landscapes(不安定な・植民地化されていない風景画)」に寄せた論評の中で、キュレーターのキャンディス・ホプキンスとルシア・サンロマンは、風景画というジャンルが「文化に固有の見方を隠す」アリバイとしてどのように利用されてきたかを論じている。

「先住民の労働者や年季奉公契約の農作業員、その他の農業労働者を含む、土地に直接関係する人々と土地を他者化することは、(風景画をアリバイに利用する)方法の基本原則である。西洋の世界観は、経験を脱主体化する一種の自己意識を生み出す。これは(一見)不活発で受動的な身体を管理しやすくするためであり、この身体が後期資本主義に蔓延する生産と消費の作用を支えている。この前提を念頭に置いて、私達の問いは風景画は何かということではなく、風景画が特定の社会的価値観を立証するためにどのように利用されているかということだ」。11

芸術形態もまた、このような分離化の進行にさらされてきた。グリーンバーグの評論が重大な影響力を持っていた時代まで、ヨーロッパの芸術家達が好きな場所で絵を描いていたのは、私達がよく知る通りだ。例えば、コロンブス的抽象主義者達は、世界中の文化の芸術的実践の中から抽象的なものをコロンブス化し、他人の作品の幾何学的な側面を自分達の芸術的な「発見」として主張したのである。被植民地の芸術形態を元々の文化的、物質的な文脈から切り離すこともあれば、文脈を理想化したり伝統的なものと見なし、つまりは純粋な歴史として軽視することもあった。ミチ・サーギグ・ニシナベグの学者であり作家でもあるリアン・ベタサモサケ・シンプソン(アルダービル先住民族)は、土地と文化を植民地化した侵害について次のように説明している。「採取の行為は、採取されるものに意味を与える全ての関係性を取り去る。…採取は盗みである。採取とは、その行為が環境の他の生物に与える影響に対する同意や配慮、責任、知識もなく、ただ持ち去ることだ」。12

出会いが生み出す予測不可能な変化を無視したり抑制し続ける試みは、生成力を持った複雑な関係ではなく、破壊的な選択的採取を永続させてしまう危険性がある。シンプソンはまた、次のように書いている。「採取主義に代わるものは、深い互恵主義である。それは尊敬であり、関係性であり 、責任である」。限界とは関係性に本来備わっているものだ。限界は、とりわけ個人の経験や理解がどこで終わるのかを示すが、必ずしもそれらを制限したり分割するわけではない。限界を認識することは、入手や理解ができないものの存在とその価値を尊重して認めることになり、しばしば未知のものと私達がいかに深く複雑に絡み合っているか、理解を促してくれる。芸術作品を扱う際には、批評もまた、権威と謙虚さのバランスがとれた予測不可能な出会いとして捉えることができる。変容の過程へ服従するように献身して批評に取り組むことは可能である。


1 Greenberg, Clement. “Modernist Painting.” 1960.

2 Greenberg.

3 Tsing, Anna. The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins. Princeton University Press. Princeton. 2015. (53)

4 Tsing. (61)

5 Tsing. (43)

6 Greenberg.

7 Tsing. (232)

8 Tsing. (155)

9 Tsing. (157)

10 Greenberg.

11 Hopkins, Candace; Sanromán, Lucia. “Inverted Landscapes”. Unsettled Landscapes. SITE Santa Fe. Sante Fe. 2014. (36)

12 Simpson, Leanne Betasamosake. As We Have Always Done: Indigenous Freedom through Radical Resistance. University Of Minnesota Press. Minnesota. 2019. (75)


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